終戦から70周年を迎える今年、例年になく書店には戦争に関する本が並び、映画が公開され、ニュースでも戦争に関する話題が頻繁に取り上げられています。もっとも、現在審議されている安保法案の影響も、けして少なくはなさそうですが……。

突然ですが、あなたは1945年に原子爆弾が投下された日本の都市をふたつ答えられるでしょうか。

原爆ドーム(広島平和記念碑)

むろん、正解はヒロシマ・ナガサキ。

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ヒロシマを知らない若者たち

この記事を読んでいる方で、さきほどの質問に答えられない人はいない……と個人的には信じたいところですが、海外ではそういうわけでもなさそうです。先日、ロシアの通信社『スプートニク』が、ドイツ・ベルリンでおこなわれた街頭インタビューを記事として取り上げました。それは「1945年に日本で起きた出来事や、ヒロシマ・ナガサキのことを知っているか、また、原爆投下以外に道はあったと思うか」というものでした。

「ほかの解決策はわからない」

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「数百万人が死んだと思う……自信はないけど」

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「1986年に発電所で事故が起きた」

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「ヒロシマ・ナガサキ……。スープかクリーム?」

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思った以上に知りませんでした。原子爆弾の投下による死者は、広島で約9万人、長崎で約4万人といわれています(その後まで含めると、死者数はより大きくなります)。発電所での事故については、おそらく別のできごとが混じったのでしょう。

もっとも、広島と長崎への原爆投下は、少なくとも日本の歴史にとっては『常識』といえる部分です。しかし、それが海外でここまで知られていないとなると、いささかつらい気持ちにもなるというものでしょう。しかし冷静に考えると、彼らがヒロシマ・ナガサキを知らないのも無理はないかもしれません。まさに第二次世界大戦中、ナチス党政権下のドイツがおこなったホロコーストについて、日本人の若者がどれだけきちんと語ることができるでしょうか? いわずもがな、国や文化が違えば、そこでの常識も大きく異なるはずです。

サバイバルゲーム

日本が発祥。くしくも『スプートニク』は、ドイツでのインタビューを取り上げた記事の前日に、これを「戦争ごっこ」として批判した記事を掲載したが、彼らはどれだけこの遊びを理解しているのだろうか……。

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原爆投下日を知らない若者たち

むしろ日本にとって問題なのは、こちらのほうかもしれません。

NHKの世論調査によると、原子爆弾の投下日を正しく答えられなかった者は全体の約7割にものぼったといいます。広島への投下日(8月6日)を正しく答えられたのは、広島で69%、長崎で50%、全国で30%でした。長崎への投下日(8月9日)にいたっては、広島で54%、長崎で59%、全国で26%という数字が出ています。

投下時間で止まった時計(広島)

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このことを、現代の若者の非常識や不勉強のあらわれである、と見る向きもあるでしょう。その一方で、けして回答者は若者に限らないのではないか、という考え方もあるはずです。しかしこれは、年齢や常識・勉強といった言葉で片付く問題なのでしょうか……。かつてより人の知識量が変わったというよりも、国が変われば文化と常識が異なるのと同じように、むしろ日本における『常識』が70年をかけてゆっくりと変化したと考えるべきでしょう。

しかし、それでも私たちには『敗戦』の記憶がつよく残っているのかもしれない……というと、さすがに言いすぎでしょうか?

たとえば、かくいう記者もかつての戦争に詳しいわけではありませんが、「ヒロシマ・ナガサキを知らない」と言われると「え、本気で言ってるの?」と思ってしまいます。しかしそれは、『ヒロシマ』そして『ナガサキ』が、日本の都市名という『常識』だからではないはずです。「たった70年前にあんな被害がもたらされたというのに、それを知らないのか……」といったものにも近い、まるでDNAに刷り込まれているかのような感覚といっていいのかもしれません。

もちろん、これはあくまで記者の場合です。しかし、ともすれば自分自身もよく知らないことについて「なぜ知らないのか」という態度に出てしまうことが、さして珍しくないのだとしたら、こんなに恐ろしい話もなさそうです。なぜなら、国が違えば文化と常識が異なることは当たり前であるにもかかわらず、「私たちの常識を知らないのはありえない」と訴えかける行為は、まさに戦争を招くような、不寛容以外のなにものでもないからです。

自分の当たり前は他人の当たり前ではない。

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失われる実感と訴える声

いまだ、私たちにとってヒロシマ・ナガサキの出来事は『常識』である。ただし、それに伴う知識や実感は、もはや『常識』ではなくなってしまった……。私たちが「忘却してはならない」と教えられてきた『常識』は、すでに総体としては理解できなくなってしまったのかもしれません。もしもそんな時、『常識』とされてきた出来事自体が、海外では知られていないとわかったら……。自らを棚上げしたまま「ありえない」という気持ちが先にあらわれることは、けして想像しがたいことではないでしょう。

一方で、そのような状況下であっても、私たちは戦争の悲劇を忘却しないことを求められ、また国内外にそう訴えつづけていくことになります。しかし先述のように、記者もふくめ多くの者は、『戦争の悲劇』をひとつの『常識』として理解していても、その内実まで把握してはいません。ここで起きているのは、『私たちの国の戦争の悲劇』のなかにもはや『私たち』がいないという事態です。ある感情を抱いているはずの者が、その感情の根拠を持っていない、と言いかえてもいいかもしれません。

このことを『戦争の風化』と呼ぶのならば、それも間違いではないでしょう。しかしこれは、けして「良い・悪い」という基準では判断できないものです。かつて日本に戦争があった、原爆が投下された、多くの犠牲が出た……。その実感が現代を生きる多くの者にはないこと、また知識すら忘れてしまえることは、まぎれもなく70年という年月を、私たちが平和に過ごすことができたからです。

では、このまま戦争を『風化』させたまま、私たちはその『悲劇』について、どこまで記憶しつづけ、また語りつづけることができるのでしょうか? 戦争を知る世代が続々といなくなる中、その作業は今後さらに困難をきわめていくことでしょう。それを克服するために必要なのは、『新しい戦争を夢想する』ことではなく、『私たちがいかに忘れてしまったか、いかに知らないか』を知ることかもしれません。なぜなら戦争を知らない世代には、『知らない』というところから、かつての戦争とヒロシマ・ナガサキを認識し、そして語りはじめることしか、次の70年を平和に過ごす道標を見つけることができなさそうだからです。

REFERENCE:

スープかクリームか何かじゃないの?:若いドイツ人はヒロシマを知らない

スープかクリームか何かじゃないの?:若いドイツ人はヒロシマを知らない

http://jp.sputniknews.com/life/20150802/685344.html

ある人にとっての悲劇は別の人にとっての娯楽:日本人「ウクライナ戦争ごっこ」に興じる

http://jp.sputniknews.com/japan/20150801/676391.html

サバイバルゲーム – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/サバイバルゲーム

原爆投下日、7割が正確に答えられず NHK世論調査

http://www.j-cast.com/2015/08/03241747.html