ある時は、高い吊り橋をひとり渡っていると、どこからか強い風が吹いてきて、橋が大きく揺れて床板が外れ、はるか下の激流へ真っ逆さま。またある時は、普通に街中を歩いていると、突然何者かに追いかけられて、わけもわからぬまま走って逃げる。

「もうだめだ」と思ったそのとき、私はいつもの寝室で目覚めます。これまでにいくつ悪夢を見たか、そのたびに何度冷や汗をかいたことか、数えることはできそうにありません。もし「これは夢だ」とわかったなら、私たちは夢のなかでどんなふうに過ごすでしょう?今回は、そんな「眠りながら夢だと認識している夢」その名も『明晰夢』についてのお話です。

Almost a century ago, an eccentric English lady found the secrets of dream control. Her subsequent adventures explored the limits of consciousness – and modern scientists are only just catching up.

夢みる女性

いまでこそ、明晰夢はその存在を知られています。しかしその研究こそ進んではいなかったものの、1910年代の時点で、その可能性はすでに示唆されていたのです。

かつて、メアリー・アーノルド・フォースター(1861-1951)という女性がいました。イギリスの作家・政治家、ヒュー・オークリー・アーノルド・フォースター(1855-1909)の妻です。あるときから彼女は、悪夢に悩まされていました。たとえば第一次世界大戦のさなか、緊迫する社会情勢。彼女はなぜかスパイ活動に巻き込まれていて、白い顔に山高帽を被った男に追われる身になっていたのです。

ヒュー・オークリー・アーノルド・フォースター

著名作家E・M・フォースターの甥。

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Wikipedia

しかし、メアリーが多くの者と異なるのは、彼女がこれは夢だとはっきり理解していたことでした。夢を制御する方法を身につけていた彼女は、たとえば追っ手から逃げるのではなく、そのスリルを楽しむことにしたのです。これは夢にすぎないのであって、実際に危険が及ぶことはない……。悪夢はいつからか、楽しい冒険に変わっていたといいます。

やがてメアリーは、『眠り』に関する謎を解明するため、夢のなかの冒険を役立てようと考えるようになりました。覚醒と睡眠のあいだで何が起きているのか、私たちの夢はどこから現れるのか、そして、朝になると夢はなぜ思い出せなくなってしまうのか……。1921年、メアリーは『夢の研究』という本にその研究結果をまとめています。意識の境界について記されたその本は、まさに明晰夢のガイドブックといえるでしょう。

映画『インセプション』

他人の夢に侵入してアイデアを盗み取る。夢のなかに階層があって複雑怪奇。

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©2010 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

明晰夢にアクセスする

では、実際に『明晰夢』を自分のものにするためにはどうすればよいのでしょうか?

メアリーが発見した方法はとても単純なものでした。たとえば一日中、あるいは眠る前に「これはただの夢だ、目を覚ませばすべてが終わって、すべてが元通り……」と呪文のように繰り返せばよい、というのです。メアリーは、実際にこの方法を用いて『夢』を認識できるようになり、その冒険に身を委ねるようになりました。「恐怖から解放されて眠るときの安堵感を伝えることはとても難しい」と彼女は記しています。

自己暗示

自らにある観念を繰り返すことで暗示をかけ、理性を超えた行動や力を生み出すこと。現在も、明晰夢をみるための方法と考えられている。

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『夢』を認識したメアリーが試みたのは、悪夢の恐怖から逃れるのではなく、その世界を思う存分楽しむことでした。とりわけ夢のなかでの身体の限界に興味をもったようで、空を飛ぶことに何度も挑戦しています。たとえば彼女は「前のほうに力をこめて跳ねると地面を離れる。手で少しはばたくと速度が上がる。高度を上げたり、ドアや窓のように狭いところで舵を切るのにも使える」とも記していました。もっとも、夢のなかでも空を飛ぶのは簡単ではなかったようで、彼女は鳥の飛び方に学んだり、何度も努力を重ねたうえで、高い木々や建物の上を飛べるようになったようです。

夢と脳

もっとも、メアリーの発表した『夢の研究』の内容は、その当時の専門的研究とは真っ向から対立するものでした。しかし現代、じつはメアリーの研究が正しかったこと、しかも現在の理論に先駆けた発見が含まれていたことがわかっています。

たとえば彼女は、夢がきわめて平凡な出来事から構成されていること、『日中に考えたことが、その夜もしくは数日後にみる夢の方向性を決定する』ということを指摘しました。現代において、これは『記憶』の仕組みをもって説明することができるものです。私たちが眠っているとき、脳では経験の数々が『索引』つきで保存されており、それゆえ記憶に関する領域が活性化している。したがって夢には現実の記憶があらわれるのだ……というわけです。

夢のラグ効果

記憶が夢にあらわれるのは出来事の1〜2日後、遅くとも1週間後であると実証されている。その間隔までメアリーはきちんと推測していた。

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その一方で、メアリーは夢が理屈の制約を受けないことにも言及しています。彼女は「夢を構築するプロセスは、イメージの数々がべつのものを連想させるのに似ている」と述べ、「夢みるときの想像力は、ぼんやりとした考えを拘束する規律には縛られない」と指摘しているのです。

このことは、脳の『デフォルトモードネットワーク』なるもので説明することができます。このネットワークは複数の脳領域から構成されており、脳内のさまざまな神経活動を同調させる働きをもっています。しかもこの活動は安静状態の脳で起きているので、すなわち自分がぼんやりしていても脳は活動しているのです。もちろん眠っているときも同様ですが、もっともそのときには脳の前頭皮質(論理を司る領域)の活動が低下しています。したがって、夢は理屈の制約を受けないというわけです。

ある論文では「ぼんやりとした考えの強化版が夢である」とすら結論づけられている。

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まさに眠りに落ちようというとき、たとえば奇妙なイメージが現れたり、現実にはない音を聞いたり、身体が浮くような感覚を味わうことがあります入眠時心像。また、眠っているときには夢をみていても、朝になるとすっかり忘れてしまうことは決して珍しくないことです。こうしたことも、ネットワークの働きがゆるやかになることで起きているといわれています。

夢みる母親

いうまでもなく、夢は自由なものです。場所も空間も超えて、理屈すら無視してしまって、ときには自分が想像すらしなかったところに連れて行ってくれることでしょう。そんな世界をコントロールして、自在に振る舞えることができるようになったら……。映画どころか、自分自身の空想すら超えたエンターテイメントの世界がそこには広がっているといえそうです。すると、メアリー・アーノルド・フォースターが、一生懸命に空を飛ぼうとしたことも少しは理解できそうな気がします。

しかし、悪夢に悩まされていたメアリーは、自らその世界を制御しよう、研究対象にしようと、いつから考えるようになったのでしょうか? 彼女はその時期を正確に述べていませんが、その興味は第一次世界大戦の最中に強くなっており、そのときの悪夢は「息子が死ぬ夢」だったといわれています。夢が現実の要素からできているとしたら、『明晰夢』によってその世界を制御することは、ともすれば現実の不安や抑圧を夢のなかで乗り越えることになるのかもしれません。

幸い、4人の息子たちが戦争で命を落とすことはなかったという。

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もしもあなたが悪夢に悩まされているなら、いっそのこと『明晰夢』をみることに挑戦してみるのも悪くないことでしょう。もっとも、簡単に実現できるものではないでしょうし、できたところでどれだけ楽しいのかも記者にはわかりません。けれどもご安心ください、いかに悪夢とはいえ夢でしかありません。もし失敗したとしても、いつものように寝室で目覚めるだけです。

REFERENCE:

BBC – Future – A dream-traveller’s guide to the sleeping mind

BBC – Future – A dream-traveller’s guide to the sleeping mind

http://www.bbc.com/future/story/20150819-a-dream-travellers-guide-to-the-sleeping-mind

明晰夢 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/明晰夢

H. O. Arnold-Forster – Wikipedia

http://en.wikipedia.org/wiki/H._O._Arnold-Forster

浮かび上がる脳の陰の活動 | 日経サイエンス

http://www.nikkei-science.com/page/magazine/1006/201006_034.html

睡眠中の心理的体験

http://www.jssr.jp/kiso/hito/hito09.html