いささかタイミングを逃した話題から始めることにはなりますが、先日、ピース・又吉直樹氏の作品『火花』が、第153回芥川龍之介賞(2015年上半期)を受賞、単行本はベストセラーとなりました。又吉氏は作家・太宰治を敬愛しており、その太宰がついに穫れなかった芥川賞を受賞したことも大きな話題となったのです。

自分を愛してやまなかった又吉氏が芥川賞を穫ったことを、太宰もきっと喜んでいるにちがいない……。そんな声も聞かれましたが、果たしてそうでしょうか? かつて太宰は、芥川龍之介という作家を愛し、恋こがれるあまり、何人もの先輩や師匠と壮絶な戦いを繰り広げていたのです。

かつて芥川龍之介をめぐって『火花』を散らした文豪たちがいた。

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大作家・芥川龍之介

時計の針を、いまからおよそ100年ほど戻すことにしましょう。

作家・太宰治(本名:津島修治)は、1909年に生まれ、東京帝国大学に入学するまで、生まれ故郷の青森県で過ごしました。17歳で最初の習作『最後の太閤』を執筆、同人誌を発行するなど作家を志す津島少年は、絶大な評価を受けていた芥川龍之介を、当時からすこぶる敬愛していたのです。

芥川龍之介

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Wikipedia

感受性ゆたかな少年時代にあって、津島修治は、まさに芥川に『恋』していたといっても過言ではありません。しかし、その幸せな関係は長く続きませんでした。1927年7月、芥川が大量の睡眠薬を服用し、自ら命を絶ってしまうのです。当時、津島少年は17歳になったばかりで、その死は彼に大きな影響を与えたといわれています。

芥川(右)と同じポーズをとる津島少年(左)

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グラン・テカール劇場

高校1年生当時の津島のノート。芥川の名前が何度も書かれている。

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NHK「かぶん」ブログ

芥川賞をめぐる戦い

その後の津島青年は、左翼運動に傾倒したり、作家になるため井伏鱒二に師事したり、カフェの女給と心中を試みたり(相手の女性のみ死亡)と、すでにいささか破天荒な人生を送りながら、ついに太宰治を名乗ります。そして1933年、文壇デビューを果たすこととなるのです。

1935年、太宰は短編『逆行』で、第1回芥川賞の候補に選ばれました(当時25歳)。選考委員だった詩人・作家の佐藤春夫は、短編『道化の華』を読んで太宰の才能に注目し、共通の知人に「甚だおもしろく存じ候。無論及第点」と伝えています。これに歓喜した太宰は、佐藤に「命うれしくといふ言葉がふいと浮んで来ました」「うつかり気をゆるめたらバンザイが口から出さうで、たまらない」という手紙を送ったのでした。

佐藤に宛てた手紙

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毎日新聞

しかし、佐藤の評価にもかかわらず、敬愛する芥川の名前を冠したその賞を、太宰は逃してしまいます。そればかりか、選評には、太宰の神経を逆なでするような言葉があったのです。

ラウンド1 VS.川端康成

作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった。

この選評を記したのは、作家の川端康成でした。1935年、太宰は人生3度目の自殺未遂に失敗し、さらに盲腸になり、その入院中には麻酔薬をきっかけとして薬物中毒になっています。つまり「厭な雲」とは、そうした彼の一連のふるまいを指しているのでしょう。しかし『才能は認めるものの、私生活に問題がある』というこの言葉は、太宰を怒り狂わせることになります。

川端康成

のちのノーベル文学賞作家(日本初)。

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©林忠彦

選評を受けて、太宰はすぐさま、あまりに真正面すぎる題の随筆『川端康成へ』を執筆。そこで「たいへん不愉快な思いをした」こと、「憤怒に燃えた」ことを素直に書き綴っています。なかでも、「刺す。そうも思った。大悪党だと思った」という言葉は、あまりに素直すぎたのか、川端本人から「“生活に厭な雲云々”も不遜の暴言であるならば私は潔く取消す」という返事を引き出すことに成功したのでした。

この年、太宰は自分を評価してくれた佐藤春夫に師事することとなっています。しかし、それは次なる戦いの序章にほかならなかったのです。

ラウンド2 VS.佐藤春夫

しかし、自分を評価してくれた佐藤に、なぜ太宰は牙をむかなければならなかったのでしょうか? 当時の太宰は、薬物のために借金がかさみ、精神的にもとても不安定な状況でした。芥川賞を獲れば、賞金500円で生きていくことができる……。そこで彼は、第2回芥川賞の選考会を控えたころ、芥川賞を懇願する手紙を佐藤に送っています。

「第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます。私は、きつと、佳い作家に成れます。御恩は忘却いたしませぬ。」

手紙はじつに長さ4mにも及んだ。

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毎日新聞

「佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい」。その言葉もむなしく、結果は暗澹たるものでした。太宰は受賞どころか、候補にも残っていなかったのです。佐藤に裏切られたと考えた太宰は、短編『創生記』で、「芥川賞楽屋噺」としてその内幕を暴露することになります。

それを受けた佐藤は、1936年に小説『芥川賞』を執筆、太宰の告発を「妄想」と一蹴して、彼への憎悪をあらわにしました。しかし文壇は、佐藤の対応こそ醜悪だと評価し、太宰はその実力をより認められることとなったのです。

佐藤春夫

いわく、佐藤は太宰が芥川賞に推されているといい、「お前ほしいか」と尋ねた。太宰が「不自然の恰好でなかったら、もらって下さい」と答えると、佐藤は「ずいぶん強く推されて居るのだから、不自然のこともなかろう」と述べたという。

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Wikipedia

もっとも太宰は、その後も、芥川賞を獲るべく精一杯尽力しています。その執念たるや、第3回の選考会を前に、あの川端康成にも単行本と懇願の手紙を送るほどだったのです。しかしその努力もむなしく、当時の選考条件のために、太宰は候補にも選ばれず、彼が敬愛した『芥川龍之介』の賞を太宰治が受賞することはとうとうありませんでした

『文豪ストレイドッグス』

文豪がキャラ化されて能力バトルを繰り広げる。なんと芥川が太宰の弟子という、本人たちが聞いたらひっくり返りそうな設定。

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コミックナタリー

芥川と出会うための戦い

1937年、太宰は薬物依存の治療ののち、妻・初代の浮気を原因にふたたび自殺を試みています(4回目)。しかし1939年の再婚以降、その精神は安定し、太宰は作品を量産するようになりました。『女生徒』『駈込み訴え』『走れメロス』といった名作はすべて1939〜40年の作品ですが、戦後にいたるまで、彼の執筆ペースは落ちることを知らなかったのです。

もはや彼は、芥川龍之介に憧れていた少年ではなく、文豪と呼ばれてしかるべき存在となりました。そんな中、太宰は1944年の作品『津軽』で、文壇の大御所・志賀直哉を批判しています。これに対して、志賀が雑誌の座談会で太宰を酷評したことから、ついに彼は人生最後の戦いに身を投じていくのでした。

ラウンド3 VS.志賀直哉

「太宰君の『犯人』とかいうのを読んだけれども、実につまらないと思ったね。始めからわかっているんだから、しまいを読まなくたって落ちはわかっているし……」

太宰が志賀の発言をとりあげて物申したのは、最晩年の雑誌連載『如是我聞』でした。しかし、当時の志賀はすさまじい権力を持っており、彼を批判することはすなわち文壇を追放されることである、とすらいわれていたのです。けれども太宰は、その志賀を2ヶ月にわたって批判しました。その書き方たるや、いわゆる毒舌ではなく単なる罵倒といってもよいでしょう。

志賀直哉

写真は晩年。

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馬込文学マラソン

「思索が粗雑だし、教養はなし、ただ乱暴なだけ」と斬り捨てたかと思えば、『斜陽』を批判されると「おまえこそ、もう少しどうにかならぬものか」と返す。志賀の代表作『暗夜行路』には、「この作品の何処に暗夜があるのか。(中略)ただ自惚れているだけではないか。風邪をひいたり、中耳炎を起したり、それが暗夜か」という……。

もっとも原稿の最後で、太宰は付け足したかのように「うんざりしていることは、もう一つある」と書いています。それは、ほかでもない芥川龍之介への言及でした。

 君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
 日蔭者の苦悶。
 弱さ。
 聖書。
 生活の恐怖。
 敗者の祈り。
 君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。

しかし、太宰が敬愛した芥川龍之介は、志賀直哉という作家を非常に高く評価していました。彼は文学評論『文芸的な、余りに文芸的な』で、志賀を「大作家」であり「僕等のうちでも最も純粋な作家」だと述べており、その小説は「何よりも先にこの人生を立派に生きてゐる作家の作品」だといっています。おそらく、そのことを太宰が知らなかったわけではないでしょう。

最晩年の太宰治

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Wikipedia

いずれにしても事実として、芥川に評価された志賀は、太宰を痛烈に批判しました。昔から芥川に憧れ、その名を冠した賞を狙い、とうとう受賞できなかった太宰は、ともすれば、彼の批判こそがもっとも痛かったことでしょう。そこで彼は、志賀をただ罵倒するという選択に至ったのかもしれません。芥川がおまえを認めても、おまえに芥川はわからない、そんなおまえをおれは認めない……。

芥川と太宰が出会うとき

1922年、30歳の芥川龍之介は、志賀直哉の自宅を訪れています。そこで芥川は、志賀が小説を書かなかった3年間について尋ねていました。20代前半から書きつづけていた彼は、すでに疲れ切りながら、金のために書かざるを得ず、おそらくアドバイスを求めたのでしょう。志賀は「冬眠してゐるやうな気持で一年でも二年でも書かずにゐたらどうです」と答えたようです。しかし芥川は、その後わずかに執筆ペースを落とすものの、1927年、約10年間の作家生活の末に自ら命を絶ちました。

同じく太宰も、再婚から約9年間ひたすら書きつづけたのち、1948年6月に入水自殺を果たしています。志賀を罵倒した最後の原稿は、雑誌「新潮」1948年7月号に掲載されており、すなわちその文章は、その人生の最期に書かれたものだったのです。もし太宰が、志賀の向こうに、ついに触れることのできなかった憧れの芥川を見て、追いかけていったのだとしたら……。そこで彼が死に引き込まれていったのも、偶然ではないのかもしれません。

現在の玉川上水

太宰とその愛人・山崎富栄が入水した場所。

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立川市教育委員会

現在、太宰治は、その人生をふくめて『退廃的な作家』と評されることがあります。しかし、こうしてみると、彼はある意味、憧れとコンプレックスのあいだでくすぶりつづけた作家だったといえるでしょう。愛する作家に近づきたい、しかし近づけない……。「うまくいかない」という抑圧が、彼を『退廃的』にしていったのだと考えるならば、ともすれば彼は、きわめて等身大の作家だったのかもしれません。

REFERENCE:

太宰治が芥川賞懇願する手紙見つかる

太宰治が芥川賞懇願する手紙見つかる

http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/226725.html

太宰、芥川賞懇願の手紙見つかる…佐藤春夫宛て

http://www.yomiuri.co.jp/life/book/news/20150908-OYT8T50025.html

太宰治:佐藤春夫に「芥川賞を私に…伏して懇願」手紙4m

http://mainichi.jp/select/news/20150907k0000e040182000c.html

太宰治:「いのちをおまかせ」芥川賞にこだわる姿が赤裸々

http://mainichi.jp/select/news/20150907k0000e040184000c.html

太宰治 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/太宰治

芥川龍之介 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/芥川龍之介

芥川龍之介賞 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/芥川龍之介賞

太宰治-芥川賞候補作家|芥川賞のすべて・のようなもの

http://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/kogun/kogun1DO.htm

太宰治の生涯

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/dazai.html

書かないでいられるか?(芥川龍之介、志賀直哉に会う)

http://designroomrune.com/magome/daypage/07/0727.html

太宰治『川端康成へ』

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1607_13766.html

太宰治『創生記』

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2279_15070.html

太宰治『如是我聞』

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1084_15078.html

芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/26_15271.html