目が良い、悪い。耳が良い、悪い。物の見え方や聞こえ方は人によって様々です。そんなことは誰でも知っていることでしょう。ですが、もしかしたら私たちはそのことを知っているだけで、本当の意味では理解していなかったのかもしれません。

まずはこちらの音声を聴いて、質問にお答えください。

2つの音のペアが、全部で4パターン流れます。それぞれのペアで、1つ目の音に対し、2つ目の音は高くなったでしょうか? それとも、低くなったでしょうか? もし、近くに友達や知り合いがいるのなら、一緒に聴いて『答え合わせ』などをしてみるといいかもしれません。

お疲れさまでした。それでは正解です……と言いたいところですが、実はこの問題、トライトーン・パラドックスと呼ばれるもので、正解はありません。しいて言えば、人によって回答が違うのが正解なのです。

正解がないとはどういうことなのか。それを説明するには少し順を追って話さなければいけないでしょう。

基音と倍音

まずは基音と倍音についての説明から。普通の平均律に合わせたピアノであれば左から49番目の鍵『ラ』を押すと440Hzの基音が鳴ります。しかし、同時にその整数倍、つまり880Hz、1760Hz…といった周波数の音、倍音も同時に鳴っています。(実際には厳密に正確な整数倍ではありませんが)

ピアノの弦では感覚的に理解がしづらいでしょうから、木の板を叩くことで音を鳴らすマリンバを例にとるため、マリンバの基音と倍音が鳴る仕組みについて説明を行っている記述を引用しようと思います。

ピアノの調律の際に49鍵目の鍵盤を440Hzとしてそこを基準に調律するため、本記事もそれに倣いこの数値を基準とした。

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音板は、マレットでたたかれて音を発するとき、一度にいろいろな振動をしています。図はそのようすを示した模式図で、各振動においてもっとも動く点を腹(はら)、振動の支点になる動かない位置を節(ふし)と呼びます。この中で中央部が大きく上下する1次モードの振動が、基音(きおん)の振動となります。
基音とは、音程の基本となる音で、楽譜に記されている音、つまり“ド”なら“ド”の音のことです。音板はこの基音の振動のほかに、より波の細かい振動をいくつもしています。それが倍音の振動です。
マリンバ – 楽器解体全書PLUS – ヤマハ株式会社

どうでしょうか。基音と倍音がどのように鳴っているかを理解していただけたでしょうか。もし、理解はできたが納得はできないという方は基音だけ鳴っている場合を想像してみてください。木の板の真ん中の部分だけが大きくたわむ。なんだか気持ちが悪いですよね。そのように考えると基音以外にも倍音が鳴っているということが感覚的に理解いただけることと思います。

倍音が鳴ってるのに一つの『ラ』?

基音として『ラ』が鳴っていて倍音も鳴っていれば色々な音が混じりあって不協和になるように感じるかもしれないが、440Hzの『ラ』の一つ上のオクターブの『ラ』の周波数は880Hzで440Hzの『ラ』の倍音である。三倍になると1320Hzで『ミ』の音になるが、人間の耳はこれを感じ取ることが出来ず音色として判断する。

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また、そうでない場合もあることにはありますが、基音が最も大きな音を鳴らしていて倍音が周波数が大きくなるにつれて大きさも減衰していくと考えて差支えがないでしょう。私たちはこの最も低く最も大きな音である基音を『音の高さ』と認識しているのです。

無限音階

さて、ここでつい先ほど減衰していく、といった基音と倍音のバランスを以下のようなある一定の法則に従うように人為的に組み換えなおします。

・基音を小さく、2の整数乗の倍音を、周波数が高くなるにつれて大きく、そしてある点からまた減衰していく。

こうすることで基音が曖昧になっていきます。

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赤線が鳴っている音の周波数とその大きさを表している。

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うなり、トレモロについて

基音が曖昧になるとどういうことが起きるのか、聴いていただくのがまずは早いと思います。

どうでしょうか。『音がだんだんと高くなっているのに高くなっていない』ようなそんな感覚を覚えませんでしたか。このように無限に音が上がり続ける、もしくは下がり続けるように感じる音を無限音階といいます。あるいは、人によってはどこかで急に音が低くなったと感じられたかもしれません。ちなみにこの音源で一番低いのは『ミ』の音。つまり7、19、31、43番目に鳴った音が基音の周波数が最も低い音になっています。

音源中の『ミ』の音をスペクトルアナライザによって視覚化したもの

若干見辛いが左から三番目の縦線の左側に微かに青い線が見える。再生環境によっては鳴らないかもしれない。

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同じく『ド』

三番目の縦線の右側にしか青い線が見られない。

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どうでしょうか。『ミ』の音が鳴っている時に低くなったと感じましたか?

といっても、画像を見てわかる通り『ミ』の基音はほんのわずかしか鳴っていません。そう考えればこの『ミ』の基音はもう1オクターブ高い音だ、と判断してもいいかもしれません。ですが、『ミ』と同じように『ファ』の音でもほんの少しだけ『ミ』よりも大きな音で基音が鳴っています。もう少し高い『ラ#』ではもう少し大きな音での基音が鳴っています。

『ファ』の音

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『ラ#』の音

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ならばどれくらいの音量が鳴っていたらそれを基音と判断するべきなのでしょうか。それに解を与えることは不可能でしょう。小さな音を注意して聴こうと思えば聴こえる人もいるでしょうし、どうしても聴こえない人もいるでしょう。あえて言うのならば、この基準は『人それぞれ』と言った方がいいのかもしれません

さて、この基音が曖昧な音を使うと、他にも面白いことが起こります。以下の音源を再生すると順に7つの音が鳴ります。一つ前の音と比べて音が高くなったか低くなったか「高低低高低高」という具合に考えてみてください。、

どうでしょうか。『低高高高低高』という答えではなかったでしょうか。ちなみにそれぞれの音程は一音目から順に『ファ、レ、レ#、ソ、シ、ソ#、ド』となっていて、先ほどと同じ音色なので、『ミ』が一番低い音だとするなら『高高低高低高』が答えでなくてはいけません。もし一番低い音と判断するのが人それぞれだったとしても答えが一致するのはおかしな話です。

なぜこのようなことが起きるのでしょう。

音のアニメーション

ドイツの認知心理学者、ダイアナ・ドイチュ氏は、耳の錯覚(錯聴)について研究を続けてきました。

実験では先ほどの無限音階の原理と同じ、基音が曖昧な音の12半音が使用された。

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円環図

シのあとはド、と循環するためこのように図示できる。

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たとえば今回の無限音階のような基音の曖昧な『ド』と『ミ』を続けて聴いたとき、私たちはその高低をいかに判断しているのでしょうか。

円環図でみると、『ド』から『ミ』までの円周上の長さは、時計回りのほうが短くなっています。ダイアナ氏によれば、このような場合に音は高くなったように聴こえるといいます(反時計回りの方が短いと低く聴こえる)。無意識のうちに、私たちはこうした処理を行って音を認識していたのでした。

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つまり、私たちは無意識のうちにオクターブの円環図を作り、近い方から次の音へ向かっていたのでした。原理がわかったところでもう一度、円環図と見比べながら、先程の音源をもう一度聴いてみましょう。

『ファ、レ、レ#、ソ、シ、ソ#、ド』の順に音が鳴っている。たしかに近い方から向かってしまう。

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このような近い方に動いているという錯覚が起きるのは、音だけではありません。私たちと非常に馴染みが深いアニメーションもその錯覚と同じ原理を利用しています。

先ほどの円環図と似た図を利用したアニメーションを用意しました。

このアニメーションは円の中の線が時計回りに15度ずつズレた画像が順に表示されているだけにも関わらず、線が、あるいは円そのものがが『時計回りに15度ずつ回転している』と錯覚します。『反時計周りに345度(あるいは345+360n度)回っている』と考える人は、まぁ、いないでしょう。

そのように考えると、この無限音階の音を使った錯覚は音のアニメーションといえなくありません。

時計のアニメーション

連続した動画でないのに動いているように見える。

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さて、この無限音階がアニメーションと同じ原理であるとすると、容易にある一つの疑問が浮かびます。

時計の12時を指す画像と6時を指す画像であれば、時計回り、反時計回り、どちらに回っているようにもとることができます。それと同じように円環図の真逆に位置する音を鳴らしたなら、どちらに聴こえるのでしょう。

答えは『人による』としかいえないですよね。

上がっているように聴こえても構わないし、下がっているように聴こえても構わない。つまりこれこそが冒頭に紹介したトライトーン・パラドックスなのです

ドからファ#はどちらから回っても距離は同じ

もうどう聴くかは好みでしかあるまい。

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もう一度、改めて聴いてみましょう。環境や体調などによって聴こえ方が違うこともあります。

目が良い、悪い、といった差異は世の中に確固とした物質、あるいは現象が存在し、私たちはそれを『正しく』認識しているか否かという考えに基づいたものでしかありません。今回の無限音階やトライトーン・パラドックスのように認識に『正しい』というものがないとしたなら、私たちは私たち自身が思っているよりも、誰もが皆、まったく違う世界を見ているのかもしれません。

REFERENCE:

The strangest sounds in the world

The strangest sounds in the world

http://www.bbc.com/future/story/20150420-the-strangest-sounds-in-the-world

Tritone Paradox

http://deutsch.ucsd.edu/psychology/pages.php?i=206

「良い声」の正体…倍音とは

http://d.hatena.ne.jp/wander1985/20090920/1253424521

[ChucK][聴覚の錯覚]シェパードトーン

http://d.hatena.ne.jp/naraba/20080511/p1

聴覚心理学基本用語集

http://www.design.kyushu-u.ac.jp/~ynhome/JPN/Auditory/Book/basic-term.html

無限に続く音階(シェパードトーン)

http://www-antenna.ee.titech.ac.jp/~hira/hobby/edu/sonic_wave/sh_tone/doc_sh_tone/sh_tone.htm

マリンバのしくみ:音板にも“しくみ”がある – 楽器解体全書PLUS – ヤマハ株式会社

http://www.yamaha.co.jp/plus/marimba/?ln=ja&cn=11703&pg=3