さっき聞いた電話番号が思い出せない、今ひらめいたことがもうはっきりしない……。私たちは日頃から様々なことを知り、学び、感じている一方で、同じくらいのペースで物事を忘却していきます。しかし、私たちは本当に『忘却』しているのでしょうか。

とにかく思い出せない

先ほど知ったこと、思いついたことに限らず、私たちはたくさんの物事を日々忘れていきます。学生時代の同級生や教師の名前、彼らと過ごした日々の出来事すら、きっと気づかないうちに忘れていることでしょう。ですからそこで学んだ、たとえばこんな事柄も忘れてしまっているかもしれません。

47都道府県の名前と位置。

全部言える?

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解き方が思い出せない。

点Pは点Aを出発してから秒速1センチメートルで点D,Cを通り、点Bまで移動する。x秒後、三角形APBの面積y平方センチメートルは?

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働きアリ

ふたつの記憶

私たちの記憶は、陳述記憶非陳述記憶のふたつに分けることができます。

本記事ではその片方、陳述記憶について取り上げます。陳述記憶とは、事実や経験による、いわゆる言葉で表現できる記憶のことです。たとえば辞書で調べた言葉の意味や、幼い頃の思い出といった事柄がこちらに分類できます。

もちろん私たちは、さまざまな知識や経験をすべて持ちあわせておくことができません。ですから一度は覚えたはずの都道府県の名前を言えなくなったり、三角形APBの面積を求められなくなったりするのです。

ちなみに非陳述記憶とは、

自転車や自動車の運転、楽器の演奏といった『身体で覚えている』タイプの記憶のこと。

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では、そういった『一度覚えたはずの』記憶は、私たちの脳から完全に失われたのでしょうか。それとも脳内にあるにもかかわらず、なんらかの理由でアクセスできなくなったのでしょうか。

記憶のシステム

ひとことに『記憶』といいますが、私たちはいつも、情報の『貯蔵』と『検索』という作業を繰り返しています。知ったこと、経験したことを情報として符号化して脳内に貯蔵する作業と、それを検索して読み込む作業です。そして、脳内に貯蔵されている記憶も、実は短期記憶長期記憶のふたつに分けることができ、……なんだかややこしくなってきました。

人間の短期記憶は、聞いたことをすぐに繰り返す限り、約7項目の容量と、また15〜30秒の制限時間を持っています。ですから、時間内に情報を言葉にして繰り返さなければ、その記憶はあっけなく失われるのです。そこで失われなかったものは、短期記憶の貯蔵庫に送られると数分〜数十分間だけ持続します。これら短期記憶は、脳の海馬という部分に貯蔵されています。

すごいペースで覚えて忘れていることに。

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そして、海馬に長い間とどまった記憶のみが、そのあと長期記憶として貯蔵されることになります。長期記憶は大脳新皮質の側頭葉という部分に移されますが、その容量は数千項目、半永久的に貯蔵できるという説すらあります。

短期記憶は海馬に。

赤い部分。

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長期記憶は側頭葉に。

オレンジ色の部分。

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私たちは、自分の脳や記憶の限界を知りません。理論的にも、長期記憶に限界はないようです。また、2005年に115歳で亡くなったヘンドリック・ヴァン・アンデル・シッパー氏は脳に老化現象がほとんど見られず、このことから脳の寿命は120年程度だともいわれています。

それならば、なぜ私たちは思い出すことができなくなるのでしょうか。問題は、記憶が脳内にあるかないかよりも、どうやって覚えたのか、またどうすれば呼び出せるのか、ということになるでしょう。

『ジョジョの奇妙な冒険』第1部「ファントムブラッド」。

本当は覚えているのかもしれない。

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©荒木飛呂彦

海馬にお願いしてみよう

海馬は記憶の司令塔と呼ばれるように、記憶の取捨選択を行い、必要な記憶のみを長期記憶として移動させます。ですから覚える時点で、この情報が必要だと海馬に言い聞かせればよいことになります。

2008年、パデュー大学のジェフリー・カーピック博士は『出力を繰り返した情報は、より脳に記憶として定着する』という旨の論文を発表しました。つまり、情報を使えば使うほど、海馬はそれが必要だと認識してくれるのです。つまり、たとえばテキストを読み続けるのではなく、問題集をたくさん解くほうが記憶は定着しますし、また声に出したり身体を動かして人に説明するのも効果的でしょう。

さらに海馬には、私たちが寝ている間に情報を整理するという特徴があります。一夜漬けであれこれ詰め込むより、少し覚えて潔く寝る、という学習を繰り返すほうが効果的なのかもしれません。

復習にも効率があった……。

誰も教えてくれなかったじゃないか!

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ちなみにお酒を飲み過ぎて記憶がなくなるのは、アルコールが海馬の機能を妨害するから。

ほどほどに。

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それでも人は忘れてしまう

それでも、いかに情報を丁寧に覚えたところで、脳は情報を容赦なく忘れていきます。

その主な要因には、時間の経過とともに記憶は自然に失われていくという減衰説や、新たな情報の符号化が以前からの記憶と干渉して、古い記憶の想起を妨害する逆向抑制、逆に古い記憶に妨害されて新たな情報が符号化できなくなる順向抑制が挙げられます。

しかしエビングハウスの忘却曲線では、記憶の忘却が著しいのは情報を覚えてから1日経つまでで、その後は速度が緩やかになりますし、逆向抑制や順向抑制は類似の情報を覚える際に特に生じやすいといわれています。

エビングハウスの忘却曲線。

まだ対策の手だてがありそう。

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そんな中で厄介なのは、忘れたわけではない、つまり長期記憶にはあるのに呼び出せないという検索失敗の状態です。記憶を形づくるとき、私たちは情報を覚えた環境や状況も実は一緒に記憶しています。いわば記憶にタグ付けをしているのです。

私たちは、そのタグを手がかりに記憶を検索しようとします。ですから、何かを思い出したいときの状況と、その情報を覚えたときの状況に差があればあるほど、『思い出せない』という事態はより深刻になるのです。学校の教室で座って覚えたことを突然思い出せと言われても、それは厳しいはずですよね。

ウェブページのタグ

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恋愛マニュアルを実践でうまく使えないのは……

緊張のせいです。

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また時として、『思い出したい、けれども思い出せない』という状況は、本人に思わぬ動揺をもたらします。そのような情緒の変化が、さらに記憶の想起を難しくすることもあります。しかしそんな時こそ、付けられていたタグから記憶を呼び戻せることがあるかもしれません。

記憶の海を泳ぎきるために

映画『パーソナル・ソング』は、アルツハイマー症や認知症の患者がiPodで音楽を聴くことで、記憶を取り戻したり、また雄弁に語り出したりする様子を追ったドキュメンタリー映画です。たとえば認知症と音楽療法については日本でも多く論文が発表されていますが、この映画の予告編を観るだけでも、その効果は多少なりとも知ることができるように思われます。

映画『パーソナル・ソング』予告編

音楽を聴くことに限らず、たとえば昔暮らした家に戻ったり、古い写真を眺めたりすることは、アルツハイマー症や認知症ではない人にとっても、思い出せない何かを思い出すきっかけになりうることでしょう。失われた記憶がどんな物事とつながっていたのかは、きっと本人にすらわからないものです。自分自身の記憶に何がタグ付けされているか、認識している人はそういないことでしょう。

私たちはどうしても、何かを知ったり覚えておくことに夢中になって、それらを『忘れる』ことについて忘れてしまいがちです。しかし私たちは、知り、学び、感じる一方で、物事を日々『忘却』していきます。

ある日、大切な人や仲間の名前や、共に過ごした出来事が突然思い出せなくなる……。その可能性が絶対にないとは、誰にも言い切ることができません。しかしその時の私たちは、なんらかの理由で記憶にアクセスできなくなっているだけかもしれないのです。できれば来てほしくないその日を前に、思いつく限りの記憶のタグを、書いて伝えて、今のうちに残しておいてもよさそうです。

REFERENCE:

What happens in the brain when you no longer need the information you’ve learnt?

What happens in the brain when you no longer need the information you’ve learnt?

http://theconversation.com/what-happens-in-the-brain-when-you-no-longer-need-the-information-youve-learnt-36245

脳と記憶について

http://www.saiken.jp/pg217.html

忘却と検索

http://www.oak.dti.ne.jp/~xkana/psycho/intro/intro_24/

The Critical Importance of Retrieval for Learning

http://learninglab.psych.purdue.edu/downloads/2008_Karpicke_Roediger_Science.pdf

What Happens To Your Brain When You Get Black-Out Drunk?

http://gizmodo.com/5977688/what-happens-to-your-brain-when-you-get-black-out-drunk

映画『パーソナル・ソング』

http://personal-song.com/