かつて高度経済成長期の日本では、『四大公害病』と呼ばれるものを代表として、公害によって地域住民が大きな被害を受ける事案が発生しました。たとえば「水俣病」「新潟水俣病」「四日市ぜんそく」……。発生地の名前をもじったその病名は、現代の小学生も授業で知っているものでしょう。しかしその土地に暮らす人々は、いつまでその病名を引きずっていかなければならないのでしょうか?

そんな『病名の与える影響』について、世界保健機関(WHO)がひとつの対策指針を示しました。

The World Health Organization has issued best practices for naming human infectious diseases to avoid offence.

現代はSNSなどの普及も手伝って、新たな病原体や病気のニュースはすさまじい速度で全世界に拡散されていきます。そこでWHOは、特定のコミュニティや文化・経済などにダメージを与えかねない名前を避けるよう、科学者やメディアなどに対して最善を尽くすことを求めたのです。

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今回新たに発表された指針には、まず「病気には適切な名前が付けられることが重要」だと記されていました。文章はこのように続きます。

貿易、旅行、観光や動物福祉への不必要な悪影響は最小限にしなければならない。また、いかなる文化や社会、国家、地域、専門家、民族への攻撃が引き起こされることも避けなければならない。

具体的には、土地や人物、職業、動物、食べ物の名前を病名に含まないこと、また恐怖を煽る言葉(「未知」「致命的」「流行性」など)を用いないことが求められています。

また、症状の一般的説明(咳、腹痛など)や、患者や環境についての記述(若年性、母体、季節性など)、病原体の名前や識別子(アルファ、ベータ、数字など)を病名に使用することが推奨されています。

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とはいえ、今回発表された新たな指針は、病気の分類ごと改めるようなものではなく、あくまで手引きのひとつであるというレベルにとどまっています。それでも発表に対しては、各国の専門家がさまざまな反応を示しました。

わかりやすさか、正確性か

イギリス・アバディーン大学の細菌学者であるヒュー・ペニントン教授は、新指針を「命を救うものではない」と一蹴した者のひとりです。「ただ政治的妥当性に則っているだけで、永久に有益か疑わしい」と彼は話しています。

ドイツ・ボン大学のクリスチャン・ドロステン氏は「やがて誰も病気を区別できなくなるという点で、(病名は)政治的妥当性を選ぶべきではない」と述べているほか、オーストラリア動物衛生研究所のリンファ・ワン氏も「うんざりするような病名と、大きな混乱につながるもの」だといいます。

ポリティカル・コレクトネス

日本語では「政治的妥当性」や「政治的正しさ」。人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。行き過ぎると『言葉狩り』になることが懸念されてもいる。

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一方で、ニューヨーク長老派教会病院で危機管理を指揮するロバート・ブリストウ氏は、「鳥や馬や、感染症のあった地域への旅行を、人々には怖がってほしくない」と述べ、新指針に賛同しています。

過去の事例

確かに、双方の言い分はともに理解できるような気がします。では実際、これまでにはどのような事例が起きており、病名はどのように言い換えることができるのでしょうか?

2009年に世界的な流行となった『新型インフルエンザ』は、当初、豚からヒトへ感染した可能性が高いという理由などから『豚インフルエンザ』と呼ばれていました。しかしこの名前は誤解を招き、豚製品が敬遠されるなど関連産業などに影響を及ぼしたため、その後呼称が変更されたのです。

新型インフルエンザ

ウイルスの名称は「A(H1N1)pdm09」。これだと、さすがに何がなんだかわからない。

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GIZMODO

また一方で、症状を病名に取り入れる難しさも、過去の事例に伺うことができます。たとえば『狂牛病』(正式には「牛海綿状脳症」)は、牛の脳の組織がスポンジ化し、異常行動や運動失調などを経て、やがて死に至る病です。しかし、その症状がそのまま用いられた『狂牛病』という呼称には、その恐ろしさが直接的に表現されています。

また、病名が患者に与える影響については、日本での病名変更の例が理解しやすいでしょう。

昨年、日本精神神経学会は精神疾患をはじめとする疾患名について、『障害』という言葉を『症』に置き換えるなどの変更を発表しました。また、かつて『精神分裂病』と呼ばれた疾患名は、現在『統合失調症』に変更されています。これらは、患者に与えるショックの軽減や、病気をめぐる誤解や差別への配慮を意図して行われたものです。

差別の問題は未だに根深い。

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新指針について、WHOの福田敬二氏は「病名が与える影響は、ささいなことに思えるかもしれないが、当事者にとってはきわめて深刻な問題」として理解を求めました。彼は、これまで一部の病名が旅行やビジネスなどに障壁を生み、民族や宗教への反発を生み、動物の殺処分を招いてきたことへの反省について述べています。

『強い』言葉

わかりやすさや伝わりやすさを重視すると、誤解を招きうる表現になったり、ある種の過剰さを伴いかねません。一方で配慮を第一にすると、すぐに理解できない表現になったり、かえって焦点がぼやけることもあります。難しいバランスのなかで、WHOが新たな指針を示したことは、『配慮』への舵切りにほかならないでしょう。

その背景には、現在あらゆるメディアですぐ『わかりやすさ』が求められてしまう現実があるのかもしれません。病気にかぎらず、何か問題が起きたとき、その情報は直ちにわかりやすく伝えられ、また語られなければならない……。キャッチコピーのような言葉で複雑な問題が語られるのを、テレビや新聞などで見ることも珍しいことではありません。

『わかりづらい』という点で『わかりやすい』こともある。

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NHK NEWS WEB

ウイルスが豚からヒトに感染した可能性があるから、病名を『豚インフルエンザ』にしよう。殺人犯の自室にゲームやマンガが多かったから、その影響が疑わしい。変な名前のラジコンヘリが落ちたから規制する、『この問題』を解決するには『この方法』しかない……。ときには、わかりやすく『強い』言葉が、問題の本質を見えづらくすることもあります。

しかし、本当に必要なのは、単純に『わかりやすい』言葉でしょうか、それともただ『配慮された』言葉でしょうか?

WHOの新指針に賛同したロバート・ブリストウ氏は「病名はセンセーショナルなものでなく、正確なものであるべきだ」と述べています。このこともまた、おそらく病名に限ったことではないでしょう。いま何が起きているのか、何が問題なのか、それを前にしてどうするべきなのか……。わかりやすく、また配慮された『正確性』こそが、本当はいま最も必要とされているはずです。

REFERENCE:

WHO urges more care in naming diseases to avoid offence

WHO urges more care in naming diseases to avoid offence

http://www.ibtimes.co.uk/who-urges-more-care-naming-diseases-avoid-offence-1500616

What’s in a disease name? WHO has recommendations

http://edition.cnn.com/2015/05/11/health/who-disease-names/

Discovered a disease? WHO has new rules for avoiding offensive names

http://news.sciencemag.org/health/2015/05/discovered-disease-who-has-new-rules-avoiding-offensive-names

牛海綿状脳症(BSE)について

http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/shokuhin/bse/index.html

公害病 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AE%B3%E7%97%85

2009年新型インフルエンザの世界的流行 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/2009%E5%B9%B4%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%9A%84%E6%B5%81%E8%A1%8C

ポリティカルコレクトネスとは – コトバンク

https://kotobank.jp/word/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9-631565

子どもの病名、「障害」の多くを「症」に変更

http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=99071

【305】「精神疾患の病名変更」に思う、患者さんの回復にさえつながる「呼称」の大切さ

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20140702/405511/