進化生物学者のリチャード・ドーキンスはかつて自らの著書の中で「生物は遺伝子によって利用される”乗り物”に過ぎない」と述べました。たしかに、食事の好みや睡眠、あるいは親子の愛情でさえ、あらゆる生命の活動は遺伝子の淘汰がもたらした結果にすぎない、という考えは生命という個体が遺伝子の存続のために存在する道具、あるいは奴隷であるかのように響きます。

しかし、本当にそうなのでしょうか。生命は遺伝子に一方的に乗り回されるだけの存在に過ぎないのでしょうか。実は、そうではないのかもしれません。もっとも、それは新たな不幸をもたらすだけなのかもしれませんが。

飢餓や貧困など、ストレスの強い生活環境は遺伝子を通じて子孫に影響を与えることが研究により明らかになりました。

New research has shown for the first time that traces of our poor lifestyles, environmental stressors and trauma can be passed down to future generations through our DNA, potentially making our children more prone to conditions such as mental illness and obesity.

研究によると、たとえば飢餓などを体験した人の子孫は肥満になりやすい体質になるようです。

肥満になりやすい体質、というのは取り込んだ栄養を効率よく自分の体に取り込むということなので、もし自分の子孫も同じように貧困な生活を強いられ栄養を摂取するのが困難なのであれば非常に有効な遺伝といえるかもしれません。

このような傾向はなんとなく『キリンの首が伸びたのは高い所にある餌を食べたいと思ったからだ』というラマルクの用不用説に近いものを感じます。ダーウィンは間違っていて、ラマルクが正しかったのでしょうか。どうやらそういうわけでもないようです。

『効率よく栄養を摂取したい』と思ったから子孫が肥満体質になった?

image by

Getty Images

これはエピジェネティクスと呼ばれる遺伝子の外側、DNAの塩基配列の変化を伴わない遺伝の分野のようです。

誰が自分の作る細胞を選ぶのか

エピジェネティクスという聞き慣れない単語の説明の前に、遺伝子を構成するDNAが私たちの肉体、タンパク質を形成する過程を大まかに確認しようと思います。

生物は、生きていくために必要なタンパク質を自分の体の中でつくります。このタンパク質をつくるための情報はDNA の塩基配列に記録されています。DNA の塩基配列はまずメッセンジャーRNA に転写され、メッセンジャーRNA の塩基配列をもとに、20 種類のアミノ酸がどのように並ぶかが決められて、タンパク質へと翻訳されるのです。

なるほど。

DNAを設計図とするならRNAはそのコピーで、コピーからタンパク質が作られるということでしょうか。あまりに単純すぎて些か不安になるほど簡単に人体が作られているのがわかります。

しかし、若干の疑問が残ります。各細胞にはDNAとそれをまとめるヒストンの集まりである染色体が46本ある、つまり設計図がまとめられた46冊の設計書のようなものがあるわけなのですが、一体、その46冊にも渡る膨大な設計書から一体誰が自分の作るべき細胞のページを見つけだすのでしょうか

誰かが自分の作るべき細胞を見つけ指示を出している、と考えるのはなんとなく『生命は神によって創られた』という言葉を信じたくなってしまうようなものですが、もう少しじっくりと考えてみましょう。

実際、その『捜索者』にあたる器官はあるようなのですが、捜索者はやや複雑な機構となっているので捜索者を作るための設計図が必要になってしまい、設計図を見つける捜索者を作るための設計図を作るための捜索者が……と無限に捜索者を求め続けることになってしまいます。ひとまず捜索者はいない、と考えるのがよさそうです。

簡単な解決方法は細胞の中にはDNAの一部しか含まれていない、つまり髪の毛の細胞には髪の毛のページしか渡されていない、と考えることなのですが、1970年には既にカエルの皮膚の細胞からクローンを作ることが可能であることがわかっています。残念ながら1ページずつしか渡されていないと考えることは難しいようです。

たった一ページ読んだだけで一冊の本の内容を知ることは不可能。

image by

Getty Images

さて、それでは一体、どのようにして捜索者もページの分割もなしに自分の作るべきタンパク質を作ればよいのでしょう。ややアクロバティックに思えるかもしれませんが、このような解答を考えることができます。

細胞の中にある設計書に『ここを読むように』『ここを読むな』という付箋を付けたり、読むべきでないページを塗りつぶせばよいのです

このようにすれば捜索者の存在なしにDNA、及びメッセンジャーRNAは機械的に自分が作るべきタンパク質を選び出すことが可能となります。少々非現実的でしょうか。しかし、実際に遺伝子はこの方法を採用しているのです

そしてこのような遺伝子に付箋を付けたりページを塗りつぶすことを研究するのがエピジェネティクスという分野なのです。

ならば誰が付箋を付けてページを塗りつぶした?

それを行っているのはDNAの可能性が非常に高い。DNAのほとんどは遺伝子として機能していないと思われていたが、実際、その部分はタンパク質の生成の量に大きく関わっているということがわかってきている。この箇所が「ここに付箋をしなさい」という指示に大きく関わっていることが予想される。つまり設計書に「この段階に来たらページを塗りつぶしなさい」という記述がされていると考えられる。遺伝子の情報量ならば、それが可能である。

image by

Getty Images

ヒストン修飾

遺伝子の『付箋』にあたる機能。DNAが巻き付いているヒストンの末端がアセチル化などの化学的な『修飾』を受けることにより転写が活性化や抑制化、つまり『ここを読みなさい』『ここを読んではいけない』という付箋が付される。

image by

Histone – Wikipedia, the free encyclopedia

シトシンのメチル化

こちらは『塗りつぶし』にあたる。DNAはアデニン、シトシン、グアニン、チミンの四種の塩基を有しているが、このうちのシトシンがメチル化されることで、遺伝子の『塗りつぶし』が行われる。

image by

DNA methylation – Wikipedia, the free encyclopedia

エピジェネティクス

エピジェネティクスの重要な部分は先に挙げたDNAの塩基配列そのものには変化がなく、つまり遺伝情報は全く傷付かないことの他に、先ほどの比喩と同じ言い方をすれば付箋や塗りつぶしが容易に行われることにあります。

クローン猫『Cc』(右)とそのクローン元『レインボー』(左)

猫など体毛の模様が複雑な種はクローン、つまり同一の遺伝子を持っていたとしても模様が異なることが知られている。これは受精卵の発達段階で体毛の色を司る遺伝子にエピジェネティクス的な修飾が行われることで差異が生まれているとされている。付箋や塗りつぶしは簡単に起き、また、環境や偶然によって発生の頻度や箇所は大きく変わる。

image by

Why Clone?

これらの付箋や塗りつぶしは成長、老化と共に進むことがわかっていますが、先日の筑波大の研究によって、むしろこの塗りつぶしこそが老化の原因になっているのではないかという仮説、そしてそれを強固にする証拠も提出されています。

塗りつぶしが老化の原因になっているとしたら、既に塗りつぶしが行われている遺伝子を受け継ぐ子供はどうなってしまうのでしょうか。メチル化した遺伝子を受け継いだ子供の遺伝子を受け継いだ子供の……と何世代も受け継がれていたらいつか設計書の全ページが塗りつぶされてしまうような気がするのですが、この塗りつぶしや付箋は受精卵が細胞分裂する段階で『リセット』され、それによって再び遺伝子は全ての細胞を作れる『万能性』を取り戻すようです。つまり『塗りつぶし』は絵の具などを使うのではなく消すことが出来る鉛筆によって塗られているようです。

人工多能性幹細胞ことiPS細胞はこの『リセット』を行うことで万能性を獲得している。

image by

iPS細胞とは?|iPS細胞基本情報|もっと知るiPS細胞|CiRA(サイラ) | 京都大学 iPS細胞研究所

しかし、何事も完全完璧に行うというわけにはいきません。遺伝子中の約5%程度が、たとえば、より効率よく栄養を摂取する、という特性に関わる遺伝子などが、リセットされずに付箋や塗りつぶしを残したまま遺伝してしまうことがあるのです

と、このようなシナリオによって、親の貧困が子供の体質に影響を与えているようです。親の体験が子に影響を与えるというのは良い意味でいえば生活の知恵や記録が受け継がれるといえるかもしれませんが、肥満体質はまだしも、貧困を体験した親の子供は精神分裂症になりやすいとも研究は述べています。どのような理由があってそのような形質が遺伝するのかはわかりませんが、このような形質はかなりのお節介、さらに悪くいえば呪いのように感じられるかもしれません。

しかし、このエピジェネティクス的な遺伝は塩基配列などの直接的な遺伝よりも比較的容易に取り除けることもわかっています。今はまだ難しいですが、将来的には親からの厄介な贈り物から自由になれる日がくるかもしれません。

補足

冒頭で触れた用不用説とエピジェネティクスの違いは遺伝子の塩基配列に違いが生まれるか否かということに大きな違いがある。また、キリンはエピジェネティクス的な修飾によってあのような進化を遂げている、というわけでもない。エピジェネティクス的な性質は数世代に渡って不必要だと判断されると失われる、つまり比較的簡単にキリンの首を短くすることができるはずだが、未だにそのような例はない。また、キリンの進化を語るにあたって『高いところの餌を摂取する』という利点ばかりが脚光を浴びがちであるが、首が長い方が外敵の発見が容易であること、足の長さに比して首が短いと地面の草を食べるためにいちいちしゃがまなくてはならないなど、連続的な進化のストーリー、つまり自然淘汰によって説明することができる論拠が存在している。

image by

Getty Images

REFERENCE:

Reprogramming of DNA observed in human germ cells for first time | University of Cambridge

Reprogramming of DNA observed in human germ cells for first time | University of Cambridge

http://www.cam.ac.uk/research/news/reprogramming-of-dna-observed-in-human-germ-cells-for-first-time

筑波大学|お知らせ・情報|注目の研究|初期化により老化もリセットできるかもしれない ~ヒトの老化に伴うミトコンドリア呼吸欠損の原因に関する新仮説の発表~

http://www.tsukuba.ac.jp/attention-research/p201505221800.html

用不用説 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E4%B8%8D%E7%94%A8%E8%AA%AC

エピジェネティクス – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B9

DNAメチル化 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/DNA%E3%83%A1%E3%83%81%E3%83%AB%E5%8C%96

ヒストン – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3

仲野 徹(2014)『エピジェネティクス――新しい生命像をえがく』岩波新書