もしも自分が突然の大ケガに見舞われたとして、その手術に臨むことのできる医師が、日本にごく数人しかいなかったとしたら?都市圏に住む者ならまだしも、地方の田舎町に住んでいる者は、まず物理的な理由でその治療の機会を逃してしまうことがあります。

今回は、そんな医療の不平等に、まさにメスを入れるような『AR医療』をとりあげます。より正確に遠隔地から手術をサポートできるようになれば、もしかするとこれまで救えなかった命も救えるようになるかもしれません。

Researchers at Purdue University and the Indiana University School of Medicine are developing an “augmented reality telementoring” system to provide effective support to surgeons on the battlefield from specialists located thousands of miles away.

「テレメンタリング(telementoring)という言葉があります。接頭辞「tele(遠い)」と、動詞「mentor(指導する、助言する)」がくっついたもので、組み合わせが示すとおり『遠隔指導』という意味です。じつは以前より使われていた言葉で、医療の分野でも、直接対面せず相談や支援などをおこなうことを指してきました。たとえばテレビ電話やメールによる医師と患者のやり取りも、立派なテレメンタリングです。

この考え方は、これまでにも手術の場に導入されてきました。たとえば、医師が手術をおこなうとき、遠方にいる専門家からリアルタイムで指導や助言を受けることがあります。現状、そのようなかたちで遠隔手術を実施する場合、『テレストレータ』という、モニタに表示された画像や動画にフリーハンドで書き込むことのできるデバイスが必要になります。すなわち、実際の映像に専門家が手書きで注釈を加えながら手術がおこなわれるのです。

テレストレータ

日本でも天気予報などでよく見る。いまや珍しくもなんともない技術。

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WIRED

しかし、この『テレストレータ』を用いた遠隔手術にはひとつの問題があります。それは執刀医が、モニタと患者のあいだで視線を往復させなければならない、つまり目の前の患者だけに集中できないということです。パデュー大学のジュアン・ワックス准教授は、その原因が「テレメンタリングが未だテクノロジーとCGの進化に追いついていない」ことにあると指摘しました。

医療と拡張現実の融合

いま、パデュー大学とインディアナ大学の研究者たちは、新たなテレメンタリング・システムを開発しています。そこで彼らは、現状の遠隔手術の限界を突破するため、『拡張現実(AR)』に目をつけたのです。

拡張現実(AR)

現実環境に情報を重ねたり引いたりすることで、文字通り現実を『拡張』する技術。画像は、明星「一平ちゃん」のフタの上に女優の広瀬すずさんが現れるアプリ「AR一平ちゃん」。記者的には理解の範疇を超えている……。

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ガジェット通信

ジュアン氏らの開発する新システムは、映像を表示するデバイスに『テレストレータ』ではなく透明ディスプレイを使用することで、執刀医が実際に見ている患者の姿に、直接、専門家が注釈やイラストを書き込めるというものでした。公開されているイメージ映像や写真から、どのようなものか見てみることにしましょう。

タブレットを患者と執刀医のあいだに設置。

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まるで窓ごしに手術をするような感覚?

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「ここを切りなさいよ」と線を引けば、

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あたかも患者本人に線が引かれたようになる。

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実際の使用例

こちらはマネキンを用いたテストの様子。

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PURDUE UNIVERSITY

もっとも、ディスプレイそのものは透明なものではありません。設置されたタブレットは、リアルタイムで手術の様子を撮影すると、その映像を遠方の専門家に送信します。そこに専門家がなにか書き込むと、書き込み後の映像がタブレットに送り返されてくる、というわけです。もちろん手術の状況は刻々と変化しているものですが、たとえカメラや患者が動いても、ひとつひとつの書き込みはその動きに対応するのだといいます。

現実の用途と課題

インディアナ大学のヘラルド・ゴメス教授は「手術や外傷の治療には、さまざまな外科的能力が必要」だと指摘し、テレメンタリングは医師に不足している専門知識を補えるものだと述べています。それゆえシステムが特に役立つのは、専門家が少ない農村部や戦場の病院だというのです。すでに新システムは前線を想定したシミュレーションでもテストされており、「イラクやアフガニスタンの戦場でも有用」という評価を受けています。

イラク戦争下の病院。

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lynsey addario

開発者たちの目下の課題は、『書き込み』とカメラや患者の動きの対応精度を高めること、また執刀医自身の手を半透明に表示するシステムを開発することだといいます。たしかに、執刀医の手はカメラと患者のあいだを動くため、専門家側にとっては邪魔になることもあるでしょう。また彼らは、手術室側と専門家側で表示される映像の質が異なるとして、よりリアルな画面づくりにも取り組んでいるようです。執刀医の視界をそのまま映像化する、頭の動きを追えるようになるなど、さらなるバージョンアップも予定されているといいます。

可能性とリスク

この研究は、たしかに医療に大きな革新をもたらすものになりそうです。開発されているシステムが、既存のタブレットや固定アームなどの家庭用電化製品だけで十分動作することも、新たに導入しやすいという点で非常に大きなメリットだといえるでしょう。主に農村部や戦場での利用が想定されているようですが、もし実用化されれば、日本でも医師不足などの問題に大きく貢献することが期待されます。

天才医師たちは、もはや患者を直接治療せず、多くの医師に指示を与えるだけの存在になるかもしれない。

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しかし、いつかそんな未来が訪れたとき、もはや医師の技術とはなんでしょうか。もしも執刀医本人の技術では治せないものが、別の医師の指示によって治せたとき、それはいったい『誰が治した』のでしょうか?また、かりに医療ミスが発生したとき、その責任は執刀医と指示者のどちらにあるのでしょうか。さらに想像を進めて、もしも医師なら誰もが指示者になれる、正確な指示を出せるとしたら、そのとき執刀医が医師である必要はあるのでしょうか?もしかするとこの技術が実現するのは、ディスプレイだけでなく執刀医自身も透明になる未来かもしれません。

けれども人間は、おそらく誰もが優秀な医師に診てもらいたい、手術してもらいたいと考えるものです。『AR医療』の実現によって、医師の技術が全体として向上し、安心して手術を受けられるようになるのであれば……。きっとそれ自体は、とても良いことにちがいありません。

REFERENCE:

Surgeons may get remote assistance with new ‘telementoring’ system

Surgeons may get remote assistance with new ‘telementoring’ system

http://www.purdue.edu/newsroom/releases/2015/Q3/surgeons-may-get-remote-assistance-with-new-telementoring-system.html

Telestrator – Wikipedia

http://en.wikipedia.org/wiki/Telestrator

拡張現実 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/拡張現実

テレメンタリング-双方向ツールによるヘルスケア・コミュニケーション

http://www.nakayamashoten.co.jp/cgi-bin/menu.cgi?ISBN=978-4-521-67801-6