『ポリグロット(polyglot)』という言葉をご存知でしょうか。2種類以上の言語を話すことができる、いわば多言語話者のことです。日本では、『マルチリンガル』という呼び方のほうが一般的かもしれません。

外国語を話してみたい、理解できるようになりたい、という思いを抱いたことのある人は少なくないことでしょう。もっともその多くは、道のりの果てしなさを前に、志なかばで諦めてしまいます。しかし一方で、『ハイパーグロット(hyperglot)』とよばれる存在もいて、彼らはなんと10ヶ国語以上を自在にあやつることができるのです。明らかに超人としか思えません……。

では、彼らハイパーグロットと、たった1ヶ国語を習得するのにかくも苦労する人々の違いはどこにあるのでしょうか? 今回はその張本人たちが語る、『外国語の学び方』についてのお話です。

『ハイパーグロット』たちの会話は、自然に数ヶ国語が入り混じるという……。

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Some people can speak a seemingly impossible number of tongues.

ことばと脳

たとえば外国語を学びたいと考えたとき、そこにはどんな理由があるでしょうか。旅行に行きたい、映画を字幕なしで観たい、仕事のため……。もしくは、頭を働かせることで脳を活性化したいという方もいるかもしれません。

あたらしく言語を学ぶには、いわずもがな『記憶』を駆使することになります。単語や文法を覚える陳述記憶、すぐれた発音のための筋肉の動きを覚える手続き記憶は、そのどちらが欠けてもいけないでしょう。そのうえ私たちは、覚えた単語・文法を一瞬にして口の中に甦らせ、しかも巧みに筋肉を動かすことによって、記憶のなかにある発音を再現しなければなりません。つまり母語を話しているときも、いつもそんな作業をしているというわけです……。

言葉は、意識的に思い出す記憶(顕在記憶)と、無意識的に思い出している記憶(潜在記憶)の両方にまたがっている。

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もっとも人間には、臨界期とよばれる「学習が上達しなくなる限界の時期」があり、そこを過ぎると言語の習得が不可能になるという説があります臨界期仮説。しかし、言語の習得に年齢が関係するという定説には、確かな根拠が認められているわけではありません。カナダ・ヨーク大学のエレン・ビアウィストク氏の研究では、年齢差による能力の違いはわずかなものにすぎないというのです。

実際、『ハイパーグロット』たちの多くは、けして幼少期に多くの言語を学んだわけではないようです。たとえば、九州産業大学で教授を務めるティム・キーリー氏は、20ヶ国語以上を話す正真正銘の『ハイパーグロット』ですが、彼はフロリダでスペイン語話者に囲まれて育ったあと、コロンビアの大学でフランス語・ドイツ語・ポルトガル語を学んでいます。その後、スイス、東ヨーロッパを転々としたのち、彼は日本にやってきたのです。

ティム・キーリー氏

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九州産業大学

けれども彼は、言語を学ぶことはけして地頭力の問題ではなく、むしろ人格こそ注目すべき点だと考えています。言語の習得に必要なのは知性ではない、と言いかえてもいいのかもしれません。

ことばと自我

かつて作家ウラジーミル・ナボコフは、自伝を書きながら、言語が自らの『思い出』に及ぼす影響に気づきました。彼は1899年にロシア帝国に生まれましたが、1940年に渡米しています。つまり彼は、ロシア語に加え、あとから第2言語として英語を習得したのです。

彼の自伝『記憶よ、語れ』は、1951年に英語で執筆されました。しかしナボコフは出版後、その本をロシア語で書きなおす決意をしたようです。ロシア語でふたたび筆を執った彼が気づいたのは、英語ではわからなかった『思い出』の新たな側面や視点でした。結果的にあまりに異なってしまった自伝を、ナボコフは再びロシア語に訳さなければならないと感じたといいます。

『記憶よ、語れ――自伝再訪』

まさに先日、日本語版の新訳が刊行された。

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使う言語が異なると、まるで過去も異なるかのよう……。ティム・キーリー氏は「新たな言語を学ぶことは、あなた自身の感覚を新たにすること」だといいます。なぜなら私たちにとって、母語は自らのアイデンティティとすでに強く結びついているものだからです。

私たちは、自我の発達とともに母語を習得し、その相互作用によって『言語自我』を生じます。これは幼少期には強く現れませんが、年齢を重ねると、自身のアイデンティティの一部となります。すると、自我と結びついた母語が脅かされる、すなわち外国語を習得する際に、抵抗や違和感を感じたりアイデンティティの衝突が生まれるというのです。

もちろん、程度には個人差があります。異なる文化や言語をじゅうぶん許容できる者ならば、その習得も比較的難しくないのかもしれません。しかし、いずれにしても新たな言語を学ぶことは、新たな『言語自我』をアイデンティティのなかにつくり出すことなのです。

ティム氏の研究によれば、他人の立場や心理をよく想像し共感できる者、近くの者にあわせて自らの意見を調整できる者ほど、外国語の習得に長けているという。もっともそれは生来の性格であり、言語習得のために改善しうるものではないかもしれないが……。

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新たに言語を学んだ者は、アイデンティティを新たにするほか、『思い出』を刷新することになるかもしれません。もっとも、ティム氏は『母語と外国語が混ざってしまう』という事態に気をつけるよう呼びかけています。彼がその対策として薦めるのは、心のなかにいくつかの『家』をつくる、すなわち言葉や文化、経験を住み分けることであらゆる言語を混ぜない、記憶や自我を混乱させないという方法です。

『ハイパーグロット』もなかなか大変そう……。

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ことばを演じる

では、実際に外国語を習得するためのコツはあるのでしょうか? 俳優マイケル・レヴィ・ハリス氏は、訓練によって10ヶ国語に堪能になり、また12ヶ国語をきちんと理解できるようになったといいます。つまり彼は、ひたすら自らの努力で『ハイパーグロット』になったのです。

マイケル氏はニューヨークで生まれ育ったにもかかわらず、イギリス英語の標準発音(クイーンズ・イングリッシュ)をすらすらと話すことができます。ただしそのとき、まるで別の人格を取り込んだかのように、彼は身体の姿勢を大きく変えるのです。彼は「自分のキャラや人格を意識的に変えようとはしていない。ただ、突然変わることはわかっている」と述べています。

マイケル・レヴィ・ハリス氏

「大切なのはスペルを考えないことだ。聴いて繰り返す(listen and repeat)ことは誰にでもできる」

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その習得法の根底には、マイケル氏の演技経験が存分に反映されていました。まず彼は、思い切ったパフォーマンスをしてみるというプロセスが必要だといいます。「まずは大きくやってみて、監督がOKだと言ったらトーンを落とす。ことばでも同じだよ」。また彼は、話している者の顔をよく見ることで、発音のコツを盗んだようです。たとえば口を少し尖らせれば、よりフランス語らしく聞こえる、というように……。

そして、もし外国語を話すことに恥ずかしさや抵抗感をおぼえたら、「それは外国語ではないと思うべきだ」と彼はいいます。とにかく自分の中から起こってくる抑圧を乗り越えることこそ、外国語を自分のものにする方法なのであり、それは「俳優が、ことばを自分のものとして喋っていると観客に信じさせる方法」と同じだというのです。外国語を話している自分を演じているかのように、そのアイデンティティに意識的になる必要性を彼は訴えているのでしょう。

マイケル・レヴィ・ハリス主演“The hyperglot”

とにかくマイケル氏が喋りまくる予告編をどうぞ。

あまりにも普通な『ハイパーグロット』たち

『ハイパーグロット』たちは、自身の言語能力について、あまりにも普通に語ります。もっともティム氏の場合、それは自身がさまざまな国を渡り歩いて身についたことであり、マイケル氏の場合も、自身が『演じる』ことと結びついていたはずです。またナボコフの場合も、アメリカ移住がその大きな要因であったことは言うまでもないでしょう。そういう意味では、彼らは多言語を獲得すべくして獲得したのだといえます。もっとも、それも並大抵でない努力の賜物でしょうが……。

同じく『ハイパーグロット』のアレックス・ローリング氏は、その技術を伝えるため「ポリグロット・ワークショップ」なるものを開発しました。どんなに忙しく疲れていても、1日15分×4回、会話を練習したり外国のポップソングを聴いてみる……。ともすれば簡単そうですが、言わずもがな困難です。つまりこれは、外国語に触れることを絶対に忘れないという方法であり、『ハイパーグロット』たちが多言語を獲得すべくして獲得した、そんな環境の再現だといえるでしょう。

日本で外国語を習得するには?

『自然に外国語と触れられる環境を懸命に維持する』という矛盾を実現しなければならない。

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激震!本音日記

その道のりの果てしなさを前に、やはり力尽きそうになった方のために、多言語話者について研究する、フィラデルフィア・テンプル大学のアネタ・パブレンコ氏の言葉をご紹介しましょう。

「人々が言語を学ぶのをやめてしまう理由があるとしたら、それは彼らが、ネイティブのようにならなければならないと感じていることだ」

もしも私たちが『ハイパーグロット』から教わり、またすぐに役立つことがあるのだとしたら、それは「この言葉で自分自身を表現したい」という欲求の大切さなのかもしれません。そのためにアイデンティティの壁を超え、スペルさえ無視し、自身への抑圧を逆に押さえつけて、下手でもなにか話して、書いて、伝えてみること……。月並みですが、単語や文法の問題を克服できるのは、最後には精神論でしかないのかもしれません。

REFERENCE:

BBC – Future – How to learn 30 languages

BBC – Future – How to learn 30 languages

http://www.bbc.com/future/story/20150528-how-to-learn-30-languages

今仲昌宏「英語発音習得における成人学習者の抑制要因」

http://www.tsu.ac.jp/Portals/0/research/26/001-012.pdf

認知力を蓄える:脳を使うことの効用|認知症介護情報ネットワーク

http://www.dcnet.gr.jp/about/yobou.html

臨界期仮説 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/臨界期仮説

容認発音 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/容認発音

ウラジーミル・ナボコフ – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/ウラジーミル・ナボコフ