戦争、天災、テロ、犯罪、虐待など、人は命の危険にさらされると、死を免れたとしても心的外傷後ストレス障害、PTSDと呼ばれる不安や不眠、危険にさらされた時の恐怖と記憶がよみがえる(フラッシュバック)などの症状に悩まされることがあります。

記憶の定着にはよくも悪くもその出来事の印象の強さが大きく関わります。昔やってしまった恥ずかしい出来事でさえ頻繁に思い出してしまいその度に身悶えるくらいですから、死に直面した時の恐怖の記憶は思い出す頻度もその鮮明さも比べ物にならないほどひどいものでしょう。

しかしよくよく考えてみるとこの恥ずかしい出来事を思い出す、ということも不安や不眠を呼び起こすものなわけでこれもPTSDに入りそうな気がするのですが、軽度の症状ではPTSDと診断されるにはあたらないようです。要はPTSDとされるか否かは程度の問題ということです。

ここで一つ疑問が生まれます。PTSDが程度の問題だとするならば、命の危険にさらされるだけでなく、他の強烈な出来事を体験しても罹ることはありえるのではないでしょうか。

先日、ブラッドフォード大学のラムスデン心理学博士によって、ある実験が行われました。

Social media users risk suffering symptoms of post-traumatic stress disorder from viewing violent news events such as school shootings and suicide bombings, warn psychologists.

実験のための被験者は189人、いずれも過去に命の危険にさらされたこともない、つまりPTSDを患っていない平均年齢37歳の男女です。これらの被験者にラムスデン氏が9.11同時多発テロや銃乱射事件など凄惨で暴力的な映像を観せました。すると、被験者のうち約22%がPTSDと診断されうる程の激しい不安などの症状を起こしたのです。

つまり実験によって人は凄惨な出来事を体験をしていなくても、映像を見るだけでPTSDに近い症状を引き起こすことがわかったのです。

ショッキングな映像でもPTSDになる

人為的にPTSDを起こす実験と考えるとかなり危険な実験に思えるのだが、実験をするにあたっての契約書等はどうなっているのだろうか。

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近年は動画投稿サイトなどに過激集団の声明やあるいは単純なイタズラ心によって多くの暴力的な映像がアップロードされています。もちろんそういった動画は削除されますが、現状の技術では違反報告を受けるなどアップされた後に削除するのが関の山で、動画投稿前に検閲を行うということはできません。

このことからラムスデン氏は動画投稿サイトなどを観る、あるいはそれらの動画が共有される可能性のあるSNSなどを閲覧することにリスクがあるということを認識し、もし凄惨な動画を観てしまい心的外傷を負った時には適切な支援を受けることができることを知ってほしいと述べました。

望む望まないに関わらず、凄惨な動画や画像を見てしまうことはある。

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動画投稿サイト以外にも、テレビで災害の映像を観て大きくショックを受けてしまい、不安や不眠などの症状が現れてしまった人は、心療内科などで受診してみた方が良いかもしれません。

しかしこの実験、よくよく考えてみると映像がPTSDを引き起こすという以外にも別の側面を持っているように思えます。

他人の体験を自分のことのように感じる

ラムスデン氏が見せた映像のすべてかはわかりませんが、少なくともいくつかは現実に起きた他人の体験です。当然の話ですが他人の体験は自分の体験ではありません。にも関わらず他人の危険な体験を視聴してPTSDを引き起こしているということは、この実験結果は他人の体験であろうと情報量が多ければ人はそれを自分の体験のように感じると言い換えることができるのではないでしょうか。

さらにいうならば先ほど述べた通り被験者の平均年齢は37歳、9.11があったという事実を実験以前から知らなかったはずがありません。にも関わらず同じ事実のより詳細な視覚と聴覚による情報を得ることでPTSDに近い症状を起こしたということはこの実験結果は他人の体験への共感は情報量に大きく関わるということを示しているといえます。

『人が死にました』よりも『人が刃物で刺されて死亡しました』『15歳の少年が刃物で刺されて死亡しました』の方がより強く痛ましい気分になる。

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現実=虚構

情報量に共感が大きく関わるということは、人の死に対して虚構の方が現実よりも悲しく感じることがあるという事実を導くことができます。少しばかり話が飛んでいるので、それについて説明をしようと思います。

まず『人が死んだ』という文字列と映画『火垂るの墓』を見比べてみましょう。どちらがより悲しく感じるかと問われればまず間違いなく火垂るの墓でしょう。この場合、どちらも虚構ですが火垂るの墓の方が情報量が多いからです

次に、経緯はどうあれ『人が死んだ』という文字列が事実であったことが発覚します。遠くの誰か、見ず知らずの人が亡くなったとします。それを知ってよりどちらが悲しく感じられるでしょうか。どちらの方が悲しいと思っても不思議ではないでしょう。

ところで、実は火垂るの墓は実在の人物について書かれた物語であるとご存知でしたでしょうか。その事実を踏まえてもう一度、どちらがより悲しく感じられるか考えてみます。どちらかといえば、火垂るの墓の方がより悲しく感じられることと思います。

もちろん火垂るの墓がノンフィクションであるというのはなのですが、何を示したかったかというと虚構が「自分は事実である」という看板を背負うと『事実』もまた情報の一つになってしまう、ということです。

映画『火垂るの墓』

野坂昭如の短編小説を原作とした監督:高畑勲によるアニメーション映画。ノンフィクションではないが、妹との死別という主題は、原作者の野坂昭如の実体験が基になっている。

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©STUDIO GHIBLI INC.

明らかに嘘だとわかるホラーでも『これは本当にあった話です』というコメントが物語の頭に付くとより感情移入しやすくなるということも、『事実』が共感のための情報の一つでしかないことを物語っています。

他人の死を虚構として受け取る

虚構と事実に『事実である』という情報が付加されているかないかという違いしかないとなれば、人は他人の死をある意味で虚構として受け取っているといえるでしょう。あるいは他人の死を物語的にしか、あるいは文字通り他人事としてしか受け取れないと言い換えましょう。どんなに他人の死や危機的な状況に同情、共感を覚え、その人のために尽くしたとしても、それでもやはりどこかで無関心なのです。もし本当に共感しているのならば、今回の実験の被験者のようにPTSDに近い症状に悩まされているはずです。

私たちはどんなに痛ましい事件や事故があっても、一定のレベルで無関心でなければいけないのでしょう。もし本当に他人の死を知るごとにPTSDになるほど共感していたのなら、私たちは生きていくことができないのですから。