かつて、といってもニュートン力学が世界を記述する唯一の科学的なシステムであったほんの200年ほど前まで、時間は常に一定に流れるものだと考えられていました。しかしかのアインシュタインが相対性理論を導いたことで、時間は伸び縮みするあやふやで誰の上にも平等に流れるものではないということが明かされ、未来へ行くことが理論的に可能なこととなりました。しかし、いくら時間があやふやなものだとしても過去だけは確固として変わることなくその姿を一定に保ち続けていました。

というのも当たり前の話です。物事には原因と結果があり、それは時間軸に沿って順に与えられるものです。もし過去に行くことが可能であれば現在が原因となり過去が結果となり過去は未来になり現在は過去になり、時間、あるいは因果という概念が一気に崩壊してしまいます。

しかし、量子力学的に見ればそれは可能なこと、むしろ既に起きていることなのかもしれません。現在が過去を決定するという仮説を示す思考実験『ホイーラーの遅延選択実験』が実際の実験によって証明されました。

現在が過去を決定すると言われても、どういうことなのか理解が追いつきません。実験の内容はひとまず置いておいて、結果だけを見てみましょう。大体、このような具合になっています。

・ヘリウム原子を一個放出し、その途中で観測方法を切り替えることによってヘリウム原子が粒子としての性質を示すか波としての性質を示すかを選択することができた。

……。

結果だけを見ても何がどうなっているのかさっぱりわかりません。もう少し詳しく実験の内容と実験者の意図を踏まえつつ結果を示すと、

『観測方法AとBがある。観測方法Aを使うとヘリウム原子は波になる。観測方法Bを使うとヘリウム原子は粒子になる。よってヘリウム原子は観測方法によって波になるか粒子になるかを変えている。ならば観測方法Aを使ってヘリウム原子が波になっている途中に観測方法Bに切り替えてみたらどうなるだろう。結果、ヘリウム原子は観測方法Bと同じく粒子になった。最初は波だったのに途中で粒子に変わるということは実験の内容から考えてありえない。ヘリウム原子は最初から粒子だったはずだ。だが本来なら最初は観測方法Aだったから波だったはずだ。これでは辻褄が合わない。だが現在が過去に因果的に干渉していると考えると全てが丸く収まる

となるわけなのですが、やっぱり何を言っているのかはよくわかりません。どうやらもう少しこの実験について詳しく調べてみる必要があるようです。

ヘリウム原子は波か粒子か

ではまず、『ヘリウム原子は観測方法によって波になるか粒子になるかを変えている』ということから考えてみるべきでしょう。

原子といえば陽子や中性子、電子といった小さな丸い玉で構成されたものと中学や高校の理科で習ったので、粒子なのではないかと思われるかもしれませんが、実際には原子のような小さな物質、量子的な世界ではことはそう単純ではないようです。

量子というと波動関数が、不確定性原理が、などと理解不能な式が出てきて少々とっかかりづらいことのように思えるが、性質そのものを理解するのには小難しい式は必要ない。本記事でも数学式は使用しない。

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二重スリット実験

原子の話に入る前に、電子にまで一度、話を縮小します。

ひとまず、直感的に電子を小さな粒、ボールのようなものだとイメージしてみましょう。図のようにスクリーンの手前に二つのスリットが開いた板を置いて、電子を大量に穴を通すように打ち出します。スクリーンに電子が当たると、当たった部分の色が変わるとしましょう。この時、スクリーンにはどのような模様が出来るでしょうか。

水色の玉が電子とする。電子の射出機はあまりコントロールがよくなく、どちらかのスリットを目がけて撃つことはできないとする。

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電子が粒子であれば答えは簡単です。スリットと同じようにまっすぐ二本の線が描かれるだけです。

電子をボールと考えればスリットの隙間を通ってまっすぐスクリーンにたどり着くのは容易に予想がつく。

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しかし実際にはそうではありませんでした。

電子は波のように干渉を起こし、スクリーンには干渉縞模様に電子が現れたのでした。

波の干渉

波が二つ以上ぶつかると干渉を起こし、山の部分が重なるとさらに高くなり、山と谷がぶつかると波がなくなる。

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単純に電子は波であるといえればよいのですが、一つの電子を打ち出した時にスクリーンに現れる模様は薄い縞模様ではなく、一粒の点です。やはり電子は粒子のように思えます。

この矛盾を解消するために当時の物理学者達は大量の電子を撃ちだすと電子同士がぶつかって波のような性質を示すのだと判断しました。

波の高い部分(赤線と青線が交わる部分。緑の丸で表した)の直線上に伸びた部分に電子の粒が着いた跡がたくさん残っていた。

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しかし事実はそうではありませんでした。電子を一個ずつ飛ばしても、同じようにスクリーンには干渉縞が現れたのです。

たった一つしかない電子は一体何と干渉したのでしょう。その答えそのものは、ハッキリしていませんが、現代の多くの物理学者には電子の状態は、いくつかの異なる状態(右のスリットを通るか左のスリットを通るかなど)の重ね合わせとして存在していると解釈されています。つまり『電子が右のスリットを通った状態』と『左のスリットを通った状態』という二つの状態、つまり自分自身と干渉を起こしているのではないかと考えられています。

重ね合わせの状態というのは『どこかに確かに電子が存在しているがそれがどこにあるかわからない状態』と勘違いされがちだが、それは誤りである。量子のサイズでは電子などの小さな物体が薄い壁をすり抜ける『トンネル効果』というものがあることが知られている。これは電子が存在しうる確率(のようなもの)が壁の外にまで及ぶために、まれに壁の外に飛び出してしまうのだと解釈されている。壁をすり抜けた電子は場合によっては壁の遠くへ飛び出していく。最初から電子は壁の外にあったのだろうか。そんなことはないであろう。

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そしてこの電子の二重スリット実験なのですが、電子だけでなく、炭素原子60個が結合して出来ている球状の分子、フラーレンでも同様に干渉を起こすことがわかっています。つまり、電子だけでなくあらゆる物質が重ね合わせの状態にあり、自分自身と干渉を起こしているのです。

あらゆる物質が『右に向かった自分』と『左に向かった自分』とが干渉を起こしている。

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様々な可能性が重ね合わっている、という考えはなんとなく直感に反します。現実の世界のことなのに量子が確率でしか存在しないぼんやりした波のようなものであるというのは想像がしづらいことです。量子、と小さな世界の話ばかりをしていますが、私たちを構成しているのはこの原子です。そのように考えると私たちも確率の波によって形作られる非常にぼんやりしたものということになります。

証拠を見せてほしいところですが、この波は観測をすることによって一点に収縮してしまう、とされています。つまり観測をすると波は粒子に変わってしまうので証拠を見せることはできないのです。なんだか屁理屈というか言い逃れのような話ですが、実際に実験によってこのように二つの性質をふるまうことが示されているのだから、ひとまず納得するしかないようです。

近年の量子に対しての一般的な解釈であるコペンハーゲン解釈に則れば正確には『観測を行うと波が一点に収縮しているのを確認することができる』だけで観測することが一点に収縮を起こす原因だとは明確には述べていないが、本記事ではひとまず観測を行うと収縮が起きる、とする。

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ホイーラーの遅延選択実験

さて、それでは実験をもう少しだけ発展させましょう。今回は電子ではなくヘリウム原子を使いましょう。

実験1

ヘリウム原子(赤丸)を一個だけ飛ばす。

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上図のような実験装置を用意します(実験1)。黒い板はヘリウム原子を必ず反射し、白い板はスリットになっていてヘリウム原子が粒子であるとすれば50%の確率で隙間を通ってそのまままっすぐ向かいますが、もう50%の確率で隙間に入らずに壁にぶつかり90度反射をします。ヘリウム原子が波であれば高さが半分になった波がまっすぐと90度方向が変わったものの二つに分かれて進んでいきます。

白い板の簡単なイメージ図

50%の確率で隙間を通り、もう50%の確率で90度ヘリウム原子が跳ね返る板を用意する。

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観測が行われるのは右下の二つの検出器のどちらかにぶつかった時だけです。観測が行われるまでは量子は重ねあわせの状態、つまり空間的な広がりを持った波のまま進むので板の距離を上手く調節すると、波が干渉を起こしてほぼ必ず下の検出器からしか原子が検出されなくなります

右側の検出器は二つの波が逆位相で重なりあいヘリウム原子が存在する確率を打ち消してしまう。

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実験2

右下の白い板を黒い板に変えただけ。

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次に、右下の白い板を黒い板に換えます(実験2)。以下のようにするとそれぞれの検出器から原子が検出される確率はそれぞれ1/2ずつなので、両方から原子が検出される、と言いたいところなのですが、飛ばしている原子は1つなので、どちらかからしか検出されません。

ヘリウム原子が検出されないが、赤い波と青い波はそれぞれの検出器まで届いていると考えることができる。

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どちらかからしか検出されないというのはやはり『どちらかにあるのだがそれがわからないだけ』と思われるかもしれない。しかし、二重スリット実験と似たような設備、ただしスリットの向こう側に敷居を設けていると考えると『どちらかにあるのだがわからない』というわけではないということが納得しやすくなるだろう。

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さて、それでは原子を飛ばしてから検出器に届くまでの間にこの実験1と2をランダムに切り替える、つまり白い板と黒い板を換えたらどうなるでしょうか。

先ほどまで説明した『観測を行うことで確率の分布の波が収縮する』ことを考えるなら観測が行われていない以上、途中で1から2に切り替わったら2の結果が出て、2から1に切り替わったら1の結果が出るように思えます。実際に実験を行ってもそのような結果が出ます。それだけの話です。

今までの考え方だと途中で換えようが最初から同じだろうが結果が変わらないのは当たり前。

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しかし、この原子を飛ばしている最中に実験の内容を切り替える実験がホイーラーの遅延選択実験なのです。

『観測』とは

こうして考えるとずいぶんと当たり前のことを確認しているだけにしか思えません。実際、このホイーラーの遅延選択実験は元々はこの『本当に観測によって分布の波が収縮しているのか』を確認するための実験であったようです。それが一部の他の解釈をしていた人が実験の意図を取り違え『現在が過去を決定することを示す実験』と解釈され、その解釈が広まってしまったようです。

しかしなぜ一つの実験に対してこのように様々な解釈がなされてしまうのでしょう。元を正せば量子の世界の法則が未だにしっかりとした説明ができていないゆえに多様な解釈が許されてしまうからなのですが、主な誤解の原因は『観測』という行為の定義することの難しさにあります

『観測を行うと波のようにふるまっていた量子が一点に収縮する』という言葉は、まるで私たちが見るのに合わせてあたかも量子が意志を持って動いている、あるいはホイーラーの遅延選択実験の考え方に従うのならば『人間の意識が量子を波から粒子に変えている』ようにも見えるかもしれません。

しかし、もう少し『観測』という行為をつきつめて考えてみましょう。観測という言葉は『見る』という言葉を連想させますが、『見る』という行為を噛み砕く前に、もう少しわかりやすい例から観測という行為を考えましょう。

コップに入った水の温度を測るために温度計を入れます。温度計は18℃を示しました。しかし、それは温度計を入れた水の温度であり、温度計を入れる前の水の温度ではありません。極端な話、温度計が1000℃の熱を持っていたとしたら温度は温度計を入れる前と後で大きく違っているでしょう。あるいはコップに入った水の温度ではなく、たった一滴の水の温度を測ろうとすれば、たとえ水と温度計の温度の差が1℃だとしても大きな問題になります。このように、『観測』という行為は観測対象に必ず影響を及ぼすものなのです

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観測によって与えられる誤差はほんのわずかな誤差のように思えるかもしれませんが、1億分の1センチよりさらに小さな物質を扱う量子の分野では、このわずかな誤差は非常に大きな誤差になります。『見る』という行為でさえその例外ではありません。

『見る』という行為は、物質から放たれた、あるいは反射された光子が網膜に入ってくるのを認識することを指します。なので、原子を見ようとすれば、原子に光子をぶつけなければなりません。しかし、光子一個が持つエネルギーは原子という非常に小さな物質にとっては非常に大きなもので、結果、原子に光子をぶつければ、その軌道は大きく変わってしまいます。どのくらい軌道が変わったのか確かめるためにはぶつかった光子の軌道を確かめる必要がありますが、そのためにもまた何かしらをぶつける必要があります。これでは永久に原子の正確な情報を得ることができません。

不確定な要素を確かめるために観測を行うとそのせいで他に不確定な要素が現れてしまう。

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さて、観測することは観測対象に必ず影響を及ぼし、観測前の状態を正確に測ることはできない、ということは理解をしていただけたと思います。では、観測とは一体なんなのか、という話に戻しましょう。結論から言えば、何をもって観測とするのかはわかりません。ただ速度、質量あるいは位置などのどれかの数値を精密に特定しようとすればするほど他の数値が曖昧になり、測定が困難になる、という事実だけがあります

観測という言葉を定義しないままに観測が行われているというのは引っかかりを覚える話ですが、考えてみれば観測することそのものはそれほど重要ではないのです。先ほど『観測することで波が一点に収縮する』と言いましたが、実はそれさえも本当のところはわかりません。なぜなら観測する前の状態は当たり前の話ですが観測がされていないので、観測する前から原子がすでに収縮していたのかそれとも観測を行ったから収縮したのかわからず、観測という行為が波の収縮に因果関係があるかどうかがわかっていないからです。

しかし因果関係がわからないからといって定義を放っておくのもなんとなく気持ちが悪い話です。ではひとまず観測の定義を『物質の速度と位置を大まかに測る行為』としてみましょう。飛んでいる原子の動きを観測するために光子をぶつけると測定が困難になるので、今度は光子のような小さなものをぶつけるのではなく、逆に原子を大きな壁などにぶつけてみることにしましょう。電子をスクリーンにぶつけるのと同じ要領です。少なくともその時は電子がどこにぶつかったかという位置はわかるでしょう。

そのように考えていけば『観測対象を大きなものにぶつける』ことを観測と呼ぶことができるかもしれませんが、光子のような小さな物体をぶつけても波の収縮が起きることは確認できます。『観測』の定義を決めると『観測することで波の収縮が起きる』という意味で使われる『観測』と不一致を起こし、結果、定義を決めた『観測』は波の収縮とは大して関係のない言葉となってしまいます

さらには波の収縮が起きる現象を観測と呼ぶためには波の収縮が起きる現象を観測しなければならず、結果、観測を観測し、それを観測するために観測しなければならなくなる。

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©東宝/キティ・フィルム/スタジオぴえろ ©高橋留美子/小学館

あちらを立てればこちらが立たず。どうやら、量子を真に観測し、この世界の法則を理解するためにはその法則を超えた何かによって観測がなされないといけないようです。それは私たちがこの世界に生きている限り、不可能なことです。

さて、そのように考えれば、過去が現在によって決められているということも、それをたしかめる方法がない以上、ありえない話ではないのかもしれません。真実をたしかめられない以上、どの理論も反証することはできません。過去は現在によって決められているのかもしれない、確率の波が飛んでいるのかもしれない、量子は波か粒子のどちらかを自らの意志で決めているのかもしれない。どれもそれを否定する証拠を観測することはできません。しかし、どれが正解であったとしても、私たちが観測できるのはただの現象だけです。巨大な宇宙は私たちの解答にYesともNoとも言わずにただひたすらに現象だけを提示し、何も変わらず続いていきます。それだけはたしかな事実です。

REFERENCE:

Experiment Provides Further Evidence That Reality Doesn’t Exist Until We Measure It | IFLScience

Experiment Provides Further Evidence That Reality Doesn’t Exist Until We Measure It | IFLScience

http://www.iflscience.com/physics/measurement-rules-quantum-universe

原子 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90

電子 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90

コペンハーゲン解釈 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88

トンネル効果 – Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6%9E%9C

佐藤 勝彦 (監修)(2000)『「量子論」を楽しむ本―ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる!』PHP文庫.

レオナルド・サスキンド(2009)『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』林田陽子訳,日経BP社.